極限芸術 死刑囚は描く ~生きていていい状態について~

渋谷の「極限芸術 死刑囚は描く」に行ってきた。

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ここでは死刑が執行・確定した人たちが、牢の中で社会から断絶された状態で描いた、主にイラストや絵の作品群が展示されている。

ほとんどの死刑囚の名前は知らないものだったが、展示番号一番目にあった名前には覚えがあった。

 

林真須美
祭りのカレーに毒物を入れて殺人をした罪で捕まった。
事件は『和歌山毒物カレー事件』として呼ばれている。

事件が起きたのは1998年だから、ちょうど私が10歳のころであったが、
当時のニュース番組ではよく「ハヤシマスミ」という名前とその事件の名前が
あがっており、今も記憶に残っている。

 

それ以外の作品の作者も誰かしらを殺めた罪状で逮捕された者たちなのだが、
彼らの作品はすべてが全て私の予想(期待?)と合致するものではなかった。

 

当初この展示に行く前に、私が予想していたものといえば、もっと重々しく、おどろおどろしい、「人の一番深い闇」を描いた作品を想像していた。
具体的にどんなものかというまではもちろん想像の範疇の外だったが、
そういった想像できないものを見ることができるものということを半分期待して行った。

 

だが、そこに展示されている作品群は、たしかに「重く、苦しい」ものを描くものもあったが、その対象は「人間の根底にある闇」や「自らが犯してしまった罪」などではなく、「死刑という法の誤り・残酷さ」「生きる権利」「命の重さ」といったものを対象としたものが多かった。

一見するとそれらは「自分が生きつづけたいがための責任転嫁、自らの罪と正面から向き合えておらず、ただ自分が死ぬことがこわいだけ」といった言い訳・無責任論に至りそうだが、その後、はたしてそうかな?と思うに至る。

 

ここからは私の想像と思いつきに終始する。

「死刑制度」というのは人が作った決まり事≒法であり、その歴史はハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というところから本質的にはなにも変わっていない。

死刑制度に対して「生きる権利」を唱える死刑囚たちは、隔絶された牢のなかで、
「生きたい」「死にたくない」という自分の最も核となる心の声を聴く。
命というものは確かに人と人が結びついて生まれるものだが、そもそも一番最初の、根源的な「命」が生まれたきっかけは、「人が生み出」したものではなく、自然、あるいは宗教的な言葉を使うなら「神」が生み出したものと考えられる。

そうした人知を超えた何かにつくられた「命」と向かいあうことで、命をその対極・終焉にある「死」を人が生み出した「死刑制度」で迎えるということは、死刑囚だからとか善人だからとかではなく、命あるもの全てが抱くであろう「不自然さ」「違和」「抵抗感」を感じざるをえないのではないだろうか。

死刑囚がつくった作品群というのは、その対象は「死刑制度」というものにたいする「反対・抵抗」が表面上表現されることになるが、本質的には、善も悪もないまっさらな状態の「命」と向かい合った時に至った「生き続けていい状態」を訴えた表現だと私は考えるに至った。

 

「生き続けていい権利」ではなく「生き続けていい状態」。
権利という言葉もまた「人が作り出した」「人が許可・認める」ものであり、人の手を離れたものではない。
人の手を離れているというのは、ホッブズやルソーなどがあるべき政治・社会の姿を考えるうえで仮定した「自然状態」のことであり、そこは人の力を離れた状態で、決して「権利」や「法」などで縛られるものではない。

彼らが毎日「死刑を迎えるその日」まで向き合わなくてはいけない苦悩は、そういった根源的な考えであり、それらを衝動的に巧拙かかわらず表現したものが、この展示された作品群なのだろう。

 

もちろん、私が彼らを「だから許す」とか「死刑制度への反対」などいうことを訴えるつもりはない。
そこには「誰かに殺された」被害者がおり、彼らの考えもまた死刑囚と同様、「正しい」ものであり、被害者の方々の考えを尊重しないで、「命」「制度」などと向き合えるはずがないからだ。

 

うまくまとまりそうにないので、中途半場だがここで話を断絶する。


とにかく、「極限芸術 死刑囚は描く」は、作品のうまい下手という従来の美術展・作品展などとは違った考えを私に与えてくれるよい機会であった。

久しく、このように目の前の現実から遠く離れたところに考えをめぐらすことがなか
たが、改めて自分が日々知らないもの・感じることができないものを得るためには、つねに各方面に目を向けなくてはいけないと思った。


「死刑制度」について、折を見て自分の考えをまとめるために学んでみようと思う。