【精神の癒し】小説を読むこと・考えること

私は小説家になることが夢である。

今年で私は30になるわけだが、まともな小説はいままでに一篇しか書いた
ことがない分際で、そんなたわけたことをいう。

本気で小説家を目指す人たちからしたら失礼極まりない話だ。

だけど、僕は本気でそれを思っていて、その夢は高校生から抱いているものだ。

とはいえ、夢の発端は高校の三者面談のときに「将来、何になりたいか」という
テンプレートの質問に対し、当時の私は特にしたいこともなりたいものなく、
その時よく「現代小説を読んでいたから」という理由で、「小説家になろうと思います」と大見得をきったわけだ。

今にして思えば、なんと浅はかな…と思う一方で、いまだにその浅はかな表明に
自分が縛られているということがとても愚かだと感じる一方で、
やはり「小説家」という職業はいまだに私の心をつかんで離さない生業である。

そんな「小説家になりたい」私なのだが、最近はめっきり小説を読む機会が
減っており(なんじゃそりゃ)、理由は多々あるのだが、巷で評価されるエンタメ小説小説にはあまり興味がないのと、文学的すぎる小説は今の私には重すぎるというところで、避けがちであったということもある。

もっと核心をつく理由があるとすれば、たんに「小説に興味がない時期だった」と
いうのがシンプル、かつストレートなものだろう。
言葉を選ばずに言えば、「作り物」の世界よりも、現実のビジネスの世界に夢中に
なっており、ほんと目を向ける暇も気もなくなっていたのだ。

ただ今月に入り、この一年の疲れがでたのか(私が勤める会社の年度末は9月)、
今まで買って読もうと思っていたビジネス書の類には一向に食指が動かず、
気が付くと、小説を読む時間が増えるようになっていた。

今読んでいるのは中村文則の作品だが、読み残していた村上春樹、前々から読もうと思っていたウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」などを図書館から借りてきた。

昨日までは、中村文則の「銃」を、今日からは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み始めた。
それらの作品に関する書評は今後記載するところだが、やはり優れた小説というのは、
読者が不足している部分・疲れている部分を、ある時は「救い」の形で/ある時は「その傷を比にならないほどの、さらに大きく・酷い傷をつける」形で、修復(忘却?)してくれる。

この週末は「小説」に救われた(もしくは現実を忘れるほどに殴打された)。
そして、改めて小説を読もうと思えた週末だった。
今度は私も書いてみようとも。

極限芸術 死刑囚は描く ~生きていていい状態について~

渋谷の「極限芸術 死刑囚は描く」に行ってきた。

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ここでは死刑が執行・確定した人たちが、牢の中で社会から断絶された状態で描いた、主にイラストや絵の作品群が展示されている。

ほとんどの死刑囚の名前は知らないものだったが、展示番号一番目にあった名前には覚えがあった。

 

林真須美
祭りのカレーに毒物を入れて殺人をした罪で捕まった。
事件は『和歌山毒物カレー事件』として呼ばれている。

事件が起きたのは1998年だから、ちょうど私が10歳のころであったが、
当時のニュース番組ではよく「ハヤシマスミ」という名前とその事件の名前が
あがっており、今も記憶に残っている。

 

それ以外の作品の作者も誰かしらを殺めた罪状で逮捕された者たちなのだが、
彼らの作品はすべてが全て私の予想(期待?)と合致するものではなかった。

 

当初この展示に行く前に、私が予想していたものといえば、もっと重々しく、おどろおどろしい、「人の一番深い闇」を描いた作品を想像していた。
具体的にどんなものかというまではもちろん想像の範疇の外だったが、
そういった想像できないものを見ることができるものということを半分期待して行った。

 

だが、そこに展示されている作品群は、たしかに「重く、苦しい」ものを描くものもあったが、その対象は「人間の根底にある闇」や「自らが犯してしまった罪」などではなく、「死刑という法の誤り・残酷さ」「生きる権利」「命の重さ」といったものを対象としたものが多かった。

一見するとそれらは「自分が生きつづけたいがための責任転嫁、自らの罪と正面から向き合えておらず、ただ自分が死ぬことがこわいだけ」といった言い訳・無責任論に至りそうだが、その後、はたしてそうかな?と思うに至る。

 

ここからは私の想像と思いつきに終始する。

「死刑制度」というのは人が作った決まり事≒法であり、その歴史はハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というところから本質的にはなにも変わっていない。

死刑制度に対して「生きる権利」を唱える死刑囚たちは、隔絶された牢のなかで、
「生きたい」「死にたくない」という自分の最も核となる心の声を聴く。
命というものは確かに人と人が結びついて生まれるものだが、そもそも一番最初の、根源的な「命」が生まれたきっかけは、「人が生み出」したものではなく、自然、あるいは宗教的な言葉を使うなら「神」が生み出したものと考えられる。

そうした人知を超えた何かにつくられた「命」と向かいあうことで、命をその対極・終焉にある「死」を人が生み出した「死刑制度」で迎えるということは、死刑囚だからとか善人だからとかではなく、命あるもの全てが抱くであろう「不自然さ」「違和」「抵抗感」を感じざるをえないのではないだろうか。

死刑囚がつくった作品群というのは、その対象は「死刑制度」というものにたいする「反対・抵抗」が表面上表現されることになるが、本質的には、善も悪もないまっさらな状態の「命」と向かい合った時に至った「生き続けていい状態」を訴えた表現だと私は考えるに至った。

 

「生き続けていい権利」ではなく「生き続けていい状態」。
権利という言葉もまた「人が作り出した」「人が許可・認める」ものであり、人の手を離れたものではない。
人の手を離れているというのは、ホッブズやルソーなどがあるべき政治・社会の姿を考えるうえで仮定した「自然状態」のことであり、そこは人の力を離れた状態で、決して「権利」や「法」などで縛られるものではない。

彼らが毎日「死刑を迎えるその日」まで向き合わなくてはいけない苦悩は、そういった根源的な考えであり、それらを衝動的に巧拙かかわらず表現したものが、この展示された作品群なのだろう。

 

もちろん、私が彼らを「だから許す」とか「死刑制度への反対」などいうことを訴えるつもりはない。
そこには「誰かに殺された」被害者がおり、彼らの考えもまた死刑囚と同様、「正しい」ものであり、被害者の方々の考えを尊重しないで、「命」「制度」などと向き合えるはずがないからだ。

 

うまくまとまりそうにないので、中途半場だがここで話を断絶する。


とにかく、「極限芸術 死刑囚は描く」は、作品のうまい下手という従来の美術展・作品展などとは違った考えを私に与えてくれるよい機会であった。

久しく、このように目の前の現実から遠く離れたところに考えをめぐらすことがなか
たが、改めて自分が日々知らないもの・感じることができないものを得るためには、つねに各方面に目を向けなくてはいけないと思った。


「死刑制度」について、折を見て自分の考えをまとめるために学んでみようと思う。

 

広告代理店の提案とは~マクロとミクロから考える~

自分は、インターネット広告代理店に勤めている。

 

インターネット広告というものは、字義のとおり、
インターネット上に掲載される広告のことを指す。

 

インターネット広告というのは、いわゆる街中やテレビ・雑誌、電車内に展開される「広告」と若干異なる。

 

何が違うのか?
といえば、それはターゲティングの細やかさと精度だろう。

 

街中やテレビ・雑誌、電車内で見る広告というのは、
広く多くの人たちに向けた広告である。

そこには元々その広告の商品やサービスを知らなかった人たちもいれば、知っている人もおり、好きな人・嫌いな人・興味がない人など、いろんな人がターゲットに含まれることとなる。

そういった人たちに、商品・サービスの魅力・必要性を感じてもらうための手段として、「広告」は活用されている。


対して、「インターネット広告」というと、もちろん上記のような「広告」と同様の方法で活用することも可能だが、さらにユーザーごとに細かい広告アプローチができるのが特徴だ。

たとえば、性別・年齢などのデモグラ、その人がなにに興味をもっているのか?何を必要と感じているのか?などから、「○○に興味関心がある人にだけ広告を掲載したい」などの制限も可能である。

ここでは記さないが、より細かくターゲットユーザーを区分することも可能であり、
そういった手法は、インターネット広告においてはまるっと「アドテクノロジー」と呼称される。

 

「アドテクノロジー」の進化(深化?)に伴い、
広告ができるターゲティングの細やかさは大きく進んでいる一方で、
時に「テクノロジー(ミクロの視点)」で出来ることからマーケティングプロモーションを考えていないか?と思わされることがある。

 

もちろんそういった手段・方法の視点から生み出されるアイデアがあることも事実であり、「こんなターゲティングができるならこんな表現で広告を出してみよう」という意見がでることもしばしばだ。

だが、そちらに傾倒しすぎると、マーケティングの本質を見失ってしまうことも、
また裏表の事実である。


マーケティングの理解は、「市場・顧客の理解」に尽きると私は考える。
もちろん、加えて「競合の理解」「自社の強み」といった「3C」のフレームワークも重要だし、「ファイブフォース分析」「バリューチェーン分析」などの方法もあげられるが、何よりも重要なのは、つまるところ「市場・顧客」だろう。
そこがなくては、我々がマーケティングを考えたり、プロモーションを展開する対象する土台がそもそもなくなるのと同義だからだ。

 

我々広告代理店は、「広告主の課題を最も解決に導けるソリューションを提供できるのはどこか?」といったコンペにしばしば呼ばれ、未来のクライアントとすべく、必死に提案内容を考えることとなる。

だがよく起こるのが、前段の「マクロ分析」と戦術となる「アドテク提案(ミクロ)」がうまくかみ合っていない、ないし最悪の場合、まったく関連のない独立した提案に終始してしまっているケースだ。

 

「アドテク」というのは、端的にいえば「どんな広告主でも適用可能」つまり汎用的な広告手法であるのに対し、広告主がもつ課題というのは、それぞれ個別である。

つまり個別化された課題に対し、汎用的な手法提案が完全にマッチすることはないし、
それを実現しようというのは、率直に「広告代理店では困難」というものだろう。

 

では僕ら広告代理店がすべきことは何か?

 

それはマクロ(外部・内部の課題)とミクロ(アドテク)両方からアプローチした際に、決してかみ合わない部分を、いかに凸凹なく、密接につなげられるかであり、
そこで提案の中心・根幹として介在するのが、「クリエイティブ」だと、私は考える。

広告主ごとに、伝えたいメッセージは異なるし、したい表現手法も変わってくる。
そしてそのメッセージ・表現手法をいかに適切なターゲットユーザーにアプローチすることができるか、需要が顕在化したユーザーだけでなく、潜在的な悩みをもつユーザーにも広告をあてることができるか。

これらが広告マーケティングの本質であり、広告代理店がつくれるコミュニケーションプランであり、それを提案し実現できるのが、「優れた広告代理店」であろうと思う。アドテクに溺れず、かつ市場・顧客の需要に迎合しすぎず、広告主の今と未来課題と正面から向き合いながら解決をしていく。

そしてその理想と現実のギャップをしっかり「クリエイティブの表現・メッセージ」で補完する。

これを実現できるコミュニケーションプランニングを目指していきたいものである。

ミーティングは疲れるね

三連休明け。

世間はお盆で今日はクライアントからの電話もほとんどならなかった。

 

とはいえ、顧客がいなくとも、

忙しいときは忙しく、今日はやたらめったら人の予定を何も確認しないでミーティングが詰め込まれていてとても疲れた。

 

ミーティングがありすぎると、もう頭が回らなくなってしまい、最後の方は大体聞けていない。。

 

ミーティング疲れをなくすにはどうすべきかと思い、検索してみたらライフハッカーのこんな記事。

 

https://www.lifehacker.jp/2014/07/140729meeting.html

 

ここ最近、ミーティングに悩まされてばかりいたので今後15分を意識して、もっと生産的なことに頭を使おうと思う。

 

それではおやすみなさいましぇ。

 

 

買った本たち、三連休が終わる。

本を買った。

吝嗇とは言えない性格で、あればバンバンお金を使いがちだけど、
特に「本」についてはお金に糸目をつけない。

 

なんていったって「本」はそこに書かれている情報量に対して、
めちゃくちゃ安いものだと思う。

 

本を読むのは時間がかかるけど、知識が骨身にしみるようにするには
やはりそれぐらいの時間が必要で、たとえばハードカバーの本、大体2000円と
大人料金の映画1本との比較で、どれくらい楽しめる時間が違うかっていう話で、
結論「本は安い」という意見に至っているわけです。

 

話が脱線しているような気がする。

というわけで、自分は本はバンバン買ってしまうわけで、この3連休でも
こんな本を買いました。

 

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なんか客観的にみると「意識高そう」な本だなw

 

二冊コピーライターについて本を買った。

僕はコピーライターになりたい、わけではなく、「コピーライターの人」に興味がある。理由はいまのところわからない。一つ言えるのは、僕は昔からそういった「短い言葉」を使いこなせる人に惹かれてしまう傾向があるということだ。


大学生の時代は、短歌や俳句、詩なんかをよく読んでいて、
たとえば種田山頭火、尾崎放哉などに代表される自由律俳句、
吉野弘長田弘や茨木のりこといった優しい詩を好んで読んでいた。
最近だと枡野浩一や穂村 弘とかも好きだ。

 

で、いまはなぜか「コピーライター」。
まぁ職業柄、広告のメッセージなんかを考えるため、その影響かもしれない。

 

購入した本はこれから読んでいくわけだけど、
自分が「コピーライターの人」に興味があり、その人の考えや行動を理解するためには
「コピー」を実際に書いてみなくてはいけない。

 

なので、今年はコピーライター宣伝会議賞に応募してみようと思う。
こんな素人がと思われるかもしれないけど、素人とプロの差が経験よりも情熱やどれだけ真剣に考えたかでカバーできるのが「コピー」だと思っているし、そう思っている以上、入選をしっかり狙っていく。(プロのコピーライターの方たちで気を悪くされたらごめんなさい。)

そんな決意をしたお盆の始まりの三連休が終わる。

明日から会社。

そろそろ眠らんとす。

なりたいもの。したいこと。

仕事の忙しさにかまけて、というか圧倒されて、お盆の三連休は何をすることもなくもう二日が経過しようとしている。

 

平日の仕事のときにも感じることだけど、

本当に年を取って時間がすぎるのが早く感じる。自分は今年30になるのだが、30でこうということは40、50そのまた先ともなれば、、、あぁ想像するだけで身震いものだ。

 

まあそんな焦燥感、人生への危機感にあおられる形で、こうやって自分語りなんかをはじめたわけだ。じゃあこの自分語りのなかで何を語ろうか。

 

自分はいま広告代理店に勤めている、今年で七年目。会社の規模からすると僕の年次だと真ん中よりもちょっと上ぐらいの年で、まあ組織としても課題は山積みだ。

あ、広告代理店といってもいわゆる電通博報堂といったところと同系の総合ではなく、僕が属しているのは「インターネット広告」というネット上の広告を扱う代理店だ。

 

趣味は特にない。みんなに自己紹介するときなんかは、読書・映画鑑賞・美術館巡り・筋トレなどと話すわけだが、実際趣味というほど入れ込んでいるのか?というとそんなことはなく、浅く広く・気が向いたらといった感じでやっている。

 

ただいつかそれら所謂「趣味」と呼んでいるものをやらなくなる日が来るのかと言われると、きっとそれはないと断言することができる。

 

趣味とは呼ばないけれども、人生の大半(おそらく思春期の頃から今にいたるまで)を執着していることが僕にはあり、それはとても抽象的なことなんだけど、一言で言えば「自己成長」だ。

 

「自己成長」?

はて。それは自己啓発とかなにかかと思うかもしれないけど、それに近いようで多分違うもの。だと思う。

 

僕はいろんなことに関心をもてるし、それらがいかに難しくてその場では諦めてしまったとしてもまたいつの日か今度こそそれを理解してやるといつも機会を狙っている。 

 

それは例えば誰かの哲学思想であったり、物理学であったり、上手なマネジメントの方法であったり、タップダンスであったり。

 

とにかく僕は諦めは早いが執着心は強く、諦めたときの心の痛みが引いたらまたトライするということを繰り返しやってきたもので、占いのおばちゃんにいわせると【努力】ができる人間らしい。

(占いやスピリチュアルの世界にも非常に強い興味がある。)

 

とにかく、僕は自己の成長を(それはある種、暗示のように、時にはコンプレックスのように)ひとつの目的としてきたわけだが、では成長したさきになにがあるのか?。自己成長というのは言ってしまえば自己完結型の目標でしかなく、そのさきには何もないものだ。

 

それに気づいたのはここ最近で、その答えの一端がわかりかけたのもここ最近だ。

僕は自己成長の先に、「人から求められること」を希望する。希望というのは綺麗で謙虚な言葉だから、もっと強く「欲望する」といおう。

 

僕はいろんなことを欲望する。

いろんな知識を身に付けること。

いろんなことができること。

その力を評価してくれる人がたくさんいて、

たくさんの人から求められる存在になること。

そして現状に満足しないこと。

 

欲望は尽きない。

僕がなりたいものは、もっとわかりやすく欲望の実現でしかないのかもしれないけど、それを現実化するためにやるべきことをやろうと思う。

 

今と未来を欲望しよう。